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CSTAの気楽な日々

   

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金魚たちにはかわいそうなことをしたもんだ

原文作成:2000/05/12

熱帯魚って高級だ!
 私が子供の頃、いつ頃かはよく覚えていないが、家では金魚を飼っていた。世間は世界とこんにちはって握手をしたりって頃から、どっかのそーりの屋敷では100万円もする鯉が泳いでいるなんて話があった頃で、しばらくの間、僕の家では1匹数百円の金魚を飼っていた。
 子供心に餌をやるのも世話をするのも、そしてなにより新しい金魚を買いに行くのをとっても楽しみにしていた。藻の匂いが漂う屋外のたたき池には100万円はしないだろうが、高くなるかもしれない、高くなり損ねたのかもしれない錦鯉がウワウワいて、建物の中の水槽では金魚が売られていた。そうそう、建物の前に置かれた青い池(?)にもコメットなどが売られていた。
 そして、熱帯魚は、高かった。PG2の他とは違う暗い色合いと、水槽の中の白いヒーター、ほのかに光を放つサーモスタットが金魚水槽とは異なり、水車も置いていない水槽でネオン・テトラが左右に泳いでいた光景を覚えている。
 「あんなんすぐ死ぬし、高いで。電気代もかかるし」
 ということで、熱帯魚水槽は憧れのままだった。
 そして何より、僕の家には金魚がいたんだ。おらんだししがしら、でめきん、らんちゅう、りゅうきん、、、。

ワカメ、それともクリスプス。それは問題じゃない!
 僕は餌やり当番だったように思う。水槽は、周囲のフレームにこってりとオレンジのパテでガラスが止めてある60cm水槽だ。夏になるとそのオレンジが少しやわらかくなって、僕を不安にさせた、、、けど、小学生になったぐらいのガキなので、そんなこと気にしない。
 水槽の中には五色石を敷いて、中ほどには高さ15cm、幅10cmほどの屏風岩みたいなのを置いて、お約束の水車小屋、それにワカメみたいな作り物の水草が主なレイアウト部品。その頃の感覚では、金魚用の水草なんて買うものじゃなく、川で取ってくるものだが、
 「そんなん汚いで」
 ってことで、よく言えばアポノゲトン・クリスプスまたはウルバケウスが、実際にはワカメみたいなひらひらした模造水草が入っていた。
 そして濾過の主力は内部フィルター。水槽の後ろコーナーに設置する縦型のものを使用していた。
 餌は単に「金魚の餌」という、なんかふりかけを腐らせたような匂いのするものを朝晩やっていた。蛍光灯はやっぱり1灯式のがついていたと思うし、朝晩点けたり消したりしていたなぁ。

僕の母親は綺麗好き!
 話は変わるようだが、僕の母は非常に日本人的な綺麗好きだ。衛生学的清潔さよりも気持ちの問題を重視するのだ。やることがないととりあえず掃除をしてしまう。自分の実家に行っても、のんびりすれば良いのに、なぜか掃除をしてしまう。性分なのだ。だから、蒲団干しが好きだ。趣味と言ってもいいくらいに好きだ。ほかほかの蒲団で寝るのは何よりも気持ちが良いらしい。なのに僕は、それが苦手だ。蒲団を干すのは良い。でも、長時間干されてはだめだし、取り込んだ後は部屋で冷ましてからでないと、夜暑くて眠れない。もう十数年一緒に住んでないが、最近引越した家の写真を見て、
 「よー蒲団が干せそうで、えーなー」
 なんて言っていた。
 で、ここから話は金魚の方へと合流する。
 こんな母だから、水槽の掃除をするとなると大変である。水換えじゃないのだ。掃除なのだ。
 当時はって1970年代前半だけど、金魚水槽では月に1度くらいの割合で水槽掃除をするのがジョーシキじゃなかったか。とにかく、水道水でも井戸水でも、前の晩から汲み置きするのが良いってことで、家中のバケツ総動員で汲み置き水を並べていた。
 そして当日。気合の入った我々は、どこの家にもあった盥(今はないね~)に金魚を移動させ、そして糞や食べかすやらで汚くなった砂、石、濾材を洗うのだ。当然ながらコケで滑りがついたワカメみたいなのや屏風岩みたいなのや、水車小屋や水槽も洗うのだ。こうなると綺麗好きの母の独壇場である。
 「これで金魚も気持ちがええやろ」
 って、真っ白になった濾過綿が入った縦型内部フィルターに、なんとなく白い気がする水槽の水。僕の役目は滑りが取れて綺麗になったワカメや屏風や水車のレイアウトだ。

バクテリアなんて知らんがな!
 金魚水槽はいつのまにかなくなった。僕は記憶にない。父親か弟か、または僕が水槽に異物を入れてしまったか何かで全滅したような話があるが、あえて話題には上らない。
 一人暮らしして、就職してから、たまに飼いたいけど手間だから飼えないだろうなぁって、ふと熱帯魚のことを思ったりした。その頃住んでた町の(って今も同じ市内なんだが)、今はもう再開発されてしまったけど、その前のごちゃごちゃした商店街の中に熱帯魚屋さんがあって、子供の頃に見たネオン・テトラを思い出した。
 結婚した後に、同じ職場で熱帯魚をやってるっていう人に出会った。なんか昔みたいに水槽の掃除をしなくても良いらしいってことが分かって、子供の頃に羨望の的だった熱帯魚を飼うことにした。1992年のことだ。約20年ぶりに。
 友人(同じ職場の人)に聞いた。本を読んだ。Niftyのフォーラムを覗いた。
 すぐに分かったことだが、バクテリアって大切なんだ。そして子供の頃の金魚のことを思い出した。
 思えばいつもつらい思いをさせていたようだ。濾材も茶色くなってバクテリアも沸いて、やっとなじんだ頃にピカピカに掃除して、「気持ちええやろ」もないもんだ。あの頃飼っていた金魚には、毎度毎度パイロット・フィッシュのようなつらい思いをさせていたんだろうな。そりゃネオン・テトラもすぐ死ぬわ。金魚だから体力勝負でどうにか持っていたんだ。

教訓は活かされているか!
 今も女房が蒲団を干す。それほど暑くない時期など部屋で蒲団をさほど冷まさないでいる。おい、僕はそれだと眠れないんだよ。蒲団の中からホコホコ暑さがにじんできて、汗ばんで気持ち悪くて眠れずに、憂鬱で不眠症みたいな夜を過ごすことになる。そんな時ふと、知らぬこととは言いながら、金魚には悪いことをしていたんだなぁって思い出したりするのだ。
 でも、バクテリアが大切だって知っていても基本的に飼育するものの気持ちだってことなんだろうな。あの頃はあーしてやることが金魚たちにとって良いことだと思ってた。今やっていることも、本質的には変わらない。水槽のために良いことをやろうとし続けているはずだ。1~2年で砂を取り替えて水槽をリセットするなんてアプローチがあるけど(そう、最近はやりの何とかサンドの類)、それって良い道歩んでるってことなのかなぁ。
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或る昭和の記憶 自叙回想 入学(三)

さて、入学当初はおとなしく振り舞っていたが、生来の内に秘めた気の強さが表面に暴露。教室でも騒ぐ、友と暴れる。兎に角、手に負えないヤンチャ振りを発揮。

福田先生も少々の責では収まらない。この坊主に手を焼かれたことだろう。その反面家では物静か、二歳違いの妹を泣かすことは度々であったが、私の学校での行動については全く知らない母は、参観日の後の個別懇談でこんな会話があったそうだ。

「うちの子は無口で一寸大人しい気がする。もう少し、活発に行動すればよいのに」

「そうでしょうか。元気すぎるのは結構だが、もし大きな怪我でもしなければと見ている」

母は複雑な気持ちで学校で休憩時の私の行動を陰から見ていたらしい、

矢張り先生の仰言ったとおりであった。然し母は私に忠告はしなかった。厳格な父と話し合った結果、黙って見守り、おおらかに楽しく過し、それで健康に育てばとの考えであったそうだ。

母はただ私にこう言った。

「晩寝る時に、今日のことを思い出し、悪いことをしたと思ったことは二度としないこと」

優しくそう言った後、にっこりと微笑した。

「遠い所へ遊びに行くな。危ない所へ入って遊ぶな、川で遊ぶときは浅い所で遊べ」

毎日々々祖母から耳が痛くなる程聞かされる。気の強い祖母だが真剣に心配し、注意してくれるが、又かとうんざりする。

母のいう言葉、即ち、一日を振り返り良い行いについては持続し、自分のなしたる行動が正しくないと判断したら改める方向へ努力せよとの意であろう。


学校から帰ると鞄を部屋に放り、母から小遣い銭を貰い、駄菓子屋で物色し、又学校の校庭で遊ぶ。学校の西側の桜の木の下に、日露戦争当時の魚雷、水雷が各一個ずつ設置してあり、それに登ったり、又滑り台等遊ぶ道具には事欠くといったことはなかった。併し、遊ぶ範囲も段々と広くなり、薄暮にこっそり帰宅するといったことも再々であった。

幼稚園に行った経験は全くなかった私であったが、絵を描いたり、勉強も皆と比較しても遅れをとることもなかった。冬休みの宿題の絵は行内展覧会で銀賞を獲得することも出来たのだ。一念願無事に過ごすことができた。

或る昭和の記憶 自叙回想 入学(二)

郡上紬も小規模ではあるが、芸術的に織られ、蚕にはエリア蚕を用いて手つむぎによる紡績、そして植物による染料を使用し、独特の味わいをかもし出す。相当高度な織物である。民家の納屋等で繭を釜で茹で、その糸を枠に巻き取る作業を内職的に、又家業として営んでいる家庭を見ることができる。

釜で茹でている時のその臭いは相当きつく、馴れるまでは随分日時を要した。

大変人情味豊かな土地である。家族はこの地に三年半余住むことになった。


しかし、一年生の私には昨日この地に住み始め、西も東も全くわからない。

登校初日、二時間もすれば下校となる。大勢の友人と共に先生に別れを告げ校門近く迄来た。然し、通用門が三か所あり、朝母と一緒に通ってきた道への門に皆目記憶がない。

さて困った。一番西側の門を通り、まっすぐ南へ行けば帰れるものを、大勢が出て行く東門へ行った許りに、行けども行けども我が家らしきものは見当たらない。愛宕山の方まで歩き、人家のない所で泣き喚き、涙を手で拭い乍ら又、校庭まで帰って来た。この間約一時間は経過したことだろう。

無理もない。昨日の午後引越してきて、最初の外出が今朝の登校だから。校門に佇み姉の出現を待った。校庭を眺めていたら早くも友をつくったであろう姉(五年生)が楽しそうに会話しているその風貌を見ることができた。

姉のもとへ飛んで行きたい、そんな心境にかられ走り出した。目敏い姉は私を見付け、友と二三語ったあと、我が家へ連れ帰って呉れた。本当に嬉しかった。

母がいろいろと慰めて呉れるも効果なく、一頻り泣き続けた。とんだ初日であった。

後で聞いたが母も帰り道を間違えたそうだ。

母は引越してきた直後で家財道具や身の廻り品の整理に目まぐるしく立働いている。祖母も何かと忙しそうに振るまっていた。多忙な様子は一目でわかる。

家は古いが大きな造りであった。門の立派な扉には閂がしつらえ、子供では開閉は無理なようだ。門から玄関まで飛び石、部屋数も多い。広い庭園には池があり、小川の流れを上手に利用したものだ。その庭園には多くの樹木が植栽され、石の燈籠が十二基も建立してある。池の周囲には大きな岩が敷設され、蘚の付着した緑は池にも映え、見飽きることなき風情でもある。優美といえる。

目を転じれば山の頂に八幡城がそびえ、そういった景色を見る限り最高の地といえる。

私の通学する服装は当時としては、これ以上のものはなかったのではなかろうか。紺のサージ地のダブルの上着に白襟を付け、慶應義塾大学のペンを組み合わせた金ボタン。半ズボンに黒の革靴。登校して校庭の片隅に立っていると多勢の上級生等が取囲み、その服装を見て「お前はどこの子や」等喰入るように眺める。余りのしつこさに皆と同じような格好でよいのにと思ったりもした。全く贅沢な話だが、小さな私にはそんな思いも無理からぬ事だ。


兄は中学三年生になっていた。美濃太田町に居住していた時には、岐阜市へ汽車で通学もできたものだが、八幡町からは到底無理である。

折角入り勉励できる岐阜市から美濃町(現美濃市)の武儀中学へ転校しなくてはならない。残念に思ったことであろう。岐阜県下では一番の進学校。将来高等学校、一流の大学への一本のレールの上に乗り、努力もせんとしたであろうに。希望、夢が粉砕されたような形。それでも温厚な兄は下宿もせず早朝六時頃の汽車で通学していた。母も大変だったことと思う。

或る昭和の記憶 自叙回想 入学(一)

優しく、そして聡明な兄が岐阜市の丸物百貨店で買って来て呉れた黒の牛皮のランドセル。これを小さな背に負い母に手を引かれて校門を潜る。希望と不安の入り混じった朝であった。

父の赴任地であるこの山奥の小さな町へ家族ぐるみ移り住むことになったのが昨日である。父、母、祖母そして五人の子供の八人もの家族である。

私は真ん中の二男坊。一年生入学であるが一日遅れである。担任は福田先生といい、四十年配の温厚な優しい感じ。常に笑みを含み幼児に接する表情は初めての先生という、学校での親替りに直面し、心なしか不安を解消して呉れる。今まで幼稚園にも通ったことがなく、初めての集団生活であり、見知らぬ土地のそういった生活に一抹の心細さを感じた。温かみのある手で私の右手を握り教室へ連れて行って下さった。

校庭には桜木、しかも老木が多く、四月十日前後になればこの寒冷の地にも爛漫と咲き誇る。まことに見事の一語に尽きる。

教室の窓から外を見る。朝の斜光を受け輝くように咲き競っている姿が見え、本当に美しい。優雅な感じを呈する。

ここは岐阜県郡上郡八幡町である。父は土木技師、主として橋梁が専門である。

昭和十一年四月南へ約二十五粁の美濃太田町(現美濃加茂市)の土木出張所長から八幡町の出張所長としての赴任である。土木出張所は内務省の管轄であり、高度な技術を身につけ、国内は勿論のこと、朝鮮、台湾等へも辞令に従い転任する場合も往々にある。木橋の流出、あるいは老朽化したものを永久橋に架換工事。その予定されたこの地への転勤であったんであろう。

この地は本当に風光明媚、長良川の支流、吉田川の清流があり、郡上藩の城下町。城山には小さい乍らも立派な八幡城がある。

郡上踊りはあまりにも有名で気高い。特にお盆の踊りは七月の下旬から九月初旬まで時には夜を徹して踊られる。寺院の多い町で毎日どこかの寺院の境内、或いは広場で賑やかに催される。通行を遮断して道路一杯に繰り広げられる場合も多々見受けられる。

起源は約三百年前、郡上藩主が農民の苦境に直面したことを案じ、踊りを通して、地域住民の心からのふれあいを深める意味で広められ、常に倹約を旨として、住民ともども質素に暮らされたそうだ。

盆踊りの唄として「郡上のなあ、八幡出て行くときは、アソレンセー雨降らぬに袖しぼる」の川崎、春駒、三百、松坂、ヤッチャク、ゲンゲンバラバラ、それに猫の子等々、数多くあり、そのどの歌詞も仲々情緒豊かと言える。

或る昭和の記憶 自叙回想 初めに

父が遺した昭和十一年からの回想文を少しずつ公開してきます。
昭和の記録の一つとして。

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