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CSTAの気楽な日々

   
カテゴリー「或る昭和の記憶」の記事一覧

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或る昭和の記憶 自叙回想 支那事変勃発

二年生の夏七月七日支那事変が勃発、大人から小さな私たちまで皆んな戦争を体験していく。出征兵士を見送りに、日の丸の小旗を振り、駅までの遠い道程を軍歌を唄い、萬歳々々を叫んで送って行く。駅ではプラットホームに立ち列車の消え行く迄萬歳を連呼した。

兵隊検査で甲種合格或いは第一乙種位の立派な体格の持主が殆どである。凛々しく頼母しく感じられ、話に聞く広い支那の大陸での活躍、手柄を祈念した。

盧溝橋事件を切掛けとして起こった支那との戦争。日本政府は宣戦布告なしで、支那事変と呼称し、局部戦争に見せかけたが、紛れもなく全面戦争であった。

上海南京等が陥落の都度、旗行列、提燈行列と、日本軍の戦果と、戦意の高揚を国民に知らしめ、私達にも滅私奉公、尽忠報国なる精神を植えつけていった。

近隣の町内会の青年に召集令状が届けば、老若男女を問わず役場前の広場で一斉に壮行会を催す。

見送る軍歌は主として日清、日露の戦役の時のものであろう。相当古いものばかりで私が小学校へ入学する以前から耳にしたことのある「砲筒の響き遠ざかる、後には虫も声たてず、、、」「天に変わりて不義を打つ、忠勇無双の我が兵は、、、」等々、子供ではとても歌詞についての意味は理解できない。ただ単に大人や上級生の唄う歌の聞き覚えだ。

 

さて、私の住んでいる家の筋向いに小枝の正ま(たぶん小枝正男であろう)という鶏を沢山飼育されている家があった。名古屋コーチン、チャボ、黒柏鶏等、品種の変わったもの、色彩豊かな素晴らしい鶏もあり、珍種を見せてもらった。常に広い金網の中を自由に動き廻り、時には羽ばたく姿は実に美しい。何時まで見ていても飽きることはなかった。趣味で飼育されているのだろうか。その正まのご子息が戦争の始まる前から海軍に入っておられた。私の知っている限り一度帰省され、軍服姿の儘、玄関前に立っておられ、私を見てにっこり微笑まれた。私は慌てて軽く頭を下げた。

背が高く、引き締まった体格、恰幅の良さには幼心に海軍の兵隊さんは良いなあと憧れにも似た心を押さえることができなかった。

併し、時として戦場で華々しく散って行かれた悲しい英霊を迎えに行かなくてはならない日もあった。あの快活に笑顔で元気一杯挨拶された当時の面影を偲び、皆整列して頭を下げた。私達の前を白布での包みを首に下げられたご遺族肉親が静々と歩かれる、その姿に一縷の涙が頬を伝った。

そのような流れでも父の職業柄、家族の者が何不自由なく平和で明るい家庭を持続することができた。

 

父の勤務先に松本さんという可成り高齢と見える工手さんが休日を除き毎日早朝に来られ、玄関及び広い土間等を清掃され、打ち水もして清々しい気分にしてくださる。又父の革靴を刷毛を用いて磨かれたりする。そして井戸のポンプを押して風呂の水を汲む、そういう行為に母はいつも感謝していた。

こういったことも父の部下に対する思いやりのあらわれであろう。

母は本当に働き者であった。八人の大家族、家事一切を母の手に委ねなくてはならない。兄の汽車通学の関係で朝五時前から炊事に取り組まねばいけない。私が一眠りして目が覚めた深夜、母の繕い物をしている姿を見ることがあった。

小学校二年生というのは実にヤンチャ坊主の集団だ。下級生ができた関係だろう。勉強に身を入れる者は皆無に等しい。私もその通りだった。毎日先生から出される宿題(主としてプリント)を帰宅後、早々と片付け、それ以外の勉強は殆どやらない。

良く暴れ、遊び、疲れ、夜の食事、入浴が済めば布団に潜り込む。朝まで何もわからず寝入る毎日。母も私の長時間の睡眠にただ呆れる許りであった。

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或る昭和の記憶 自叙回想 入学(三)

さて、入学当初はおとなしく振り舞っていたが、生来の内に秘めた気の強さが表面に暴露。教室でも騒ぐ、友と暴れる。兎に角、手に負えないヤンチャ振りを発揮。

福田先生も少々の責では収まらない。この坊主に手を焼かれたことだろう。その反面家では物静か、二歳違いの妹を泣かすことは度々であったが、私の学校での行動については全く知らない母は、参観日の後の個別懇談でこんな会話があったそうだ。

「うちの子は無口で一寸大人しい気がする。もう少し、活発に行動すればよいのに」

「そうでしょうか。元気すぎるのは結構だが、もし大きな怪我でもしなければと見ている」

母は複雑な気持ちで学校で休憩時の私の行動を陰から見ていたらしい、

矢張り先生の仰言ったとおりであった。然し母は私に忠告はしなかった。厳格な父と話し合った結果、黙って見守り、おおらかに楽しく過し、それで健康に育てばとの考えであったそうだ。

母はただ私にこう言った。

「晩寝る時に、今日のことを思い出し、悪いことをしたと思ったことは二度としないこと」

優しくそう言った後、にっこりと微笑した。

「遠い所へ遊びに行くな。危ない所へ入って遊ぶな、川で遊ぶときは浅い所で遊べ」

毎日々々祖母から耳が痛くなる程聞かされる。気の強い祖母だが真剣に心配し、注意してくれるが、又かとうんざりする。

母のいう言葉、即ち、一日を振り返り良い行いについては持続し、自分のなしたる行動が正しくないと判断したら改める方向へ努力せよとの意であろう。


学校から帰ると鞄を部屋に放り、母から小遣い銭を貰い、駄菓子屋で物色し、又学校の校庭で遊ぶ。学校の西側の桜の木の下に、日露戦争当時の魚雷、水雷が各一個ずつ設置してあり、それに登ったり、又滑り台等遊ぶ道具には事欠くといったことはなかった。併し、遊ぶ範囲も段々と広くなり、薄暮にこっそり帰宅するといったことも再々であった。

幼稚園に行った経験は全くなかった私であったが、絵を描いたり、勉強も皆と比較しても遅れをとることもなかった。冬休みの宿題の絵は行内展覧会で銀賞を獲得することも出来たのだ。一念願無事に過ごすことができた。

或る昭和の記憶 自叙回想 入学(二)

郡上紬も小規模ではあるが、芸術的に織られ、蚕にはエリア蚕を用いて手つむぎによる紡績、そして植物による染料を使用し、独特の味わいをかもし出す。相当高度な織物である。民家の納屋等で繭を釜で茹で、その糸を枠に巻き取る作業を内職的に、又家業として営んでいる家庭を見ることができる。

釜で茹でている時のその臭いは相当きつく、馴れるまでは随分日時を要した。

大変人情味豊かな土地である。家族はこの地に三年半余住むことになった。


しかし、一年生の私には昨日この地に住み始め、西も東も全くわからない。

登校初日、二時間もすれば下校となる。大勢の友人と共に先生に別れを告げ校門近く迄来た。然し、通用門が三か所あり、朝母と一緒に通ってきた道への門に皆目記憶がない。

さて困った。一番西側の門を通り、まっすぐ南へ行けば帰れるものを、大勢が出て行く東門へ行った許りに、行けども行けども我が家らしきものは見当たらない。愛宕山の方まで歩き、人家のない所で泣き喚き、涙を手で拭い乍ら又、校庭まで帰って来た。この間約一時間は経過したことだろう。

無理もない。昨日の午後引越してきて、最初の外出が今朝の登校だから。校門に佇み姉の出現を待った。校庭を眺めていたら早くも友をつくったであろう姉(五年生)が楽しそうに会話しているその風貌を見ることができた。

姉のもとへ飛んで行きたい、そんな心境にかられ走り出した。目敏い姉は私を見付け、友と二三語ったあと、我が家へ連れ帰って呉れた。本当に嬉しかった。

母がいろいろと慰めて呉れるも効果なく、一頻り泣き続けた。とんだ初日であった。

後で聞いたが母も帰り道を間違えたそうだ。

母は引越してきた直後で家財道具や身の廻り品の整理に目まぐるしく立働いている。祖母も何かと忙しそうに振るまっていた。多忙な様子は一目でわかる。

家は古いが大きな造りであった。門の立派な扉には閂がしつらえ、子供では開閉は無理なようだ。門から玄関まで飛び石、部屋数も多い。広い庭園には池があり、小川の流れを上手に利用したものだ。その庭園には多くの樹木が植栽され、石の燈籠が十二基も建立してある。池の周囲には大きな岩が敷設され、蘚の付着した緑は池にも映え、見飽きることなき風情でもある。優美といえる。

目を転じれば山の頂に八幡城がそびえ、そういった景色を見る限り最高の地といえる。

私の通学する服装は当時としては、これ以上のものはなかったのではなかろうか。紺のサージ地のダブルの上着に白襟を付け、慶應義塾大学のペンを組み合わせた金ボタン。半ズボンに黒の革靴。登校して校庭の片隅に立っていると多勢の上級生等が取囲み、その服装を見て「お前はどこの子や」等喰入るように眺める。余りのしつこさに皆と同じような格好でよいのにと思ったりもした。全く贅沢な話だが、小さな私にはそんな思いも無理からぬ事だ。


兄は中学三年生になっていた。美濃太田町に居住していた時には、岐阜市へ汽車で通学もできたものだが、八幡町からは到底無理である。

折角入り勉励できる岐阜市から美濃町(現美濃市)の武儀中学へ転校しなくてはならない。残念に思ったことであろう。岐阜県下では一番の進学校。将来高等学校、一流の大学への一本のレールの上に乗り、努力もせんとしたであろうに。希望、夢が粉砕されたような形。それでも温厚な兄は下宿もせず早朝六時頃の汽車で通学していた。母も大変だったことと思う。

或る昭和の記憶 自叙回想 入学(一)

優しく、そして聡明な兄が岐阜市の丸物百貨店で買って来て呉れた黒の牛皮のランドセル。これを小さな背に負い母に手を引かれて校門を潜る。希望と不安の入り混じった朝であった。

父の赴任地であるこの山奥の小さな町へ家族ぐるみ移り住むことになったのが昨日である。父、母、祖母そして五人の子供の八人もの家族である。

私は真ん中の二男坊。一年生入学であるが一日遅れである。担任は福田先生といい、四十年配の温厚な優しい感じ。常に笑みを含み幼児に接する表情は初めての先生という、学校での親替りに直面し、心なしか不安を解消して呉れる。今まで幼稚園にも通ったことがなく、初めての集団生活であり、見知らぬ土地のそういった生活に一抹の心細さを感じた。温かみのある手で私の右手を握り教室へ連れて行って下さった。

校庭には桜木、しかも老木が多く、四月十日前後になればこの寒冷の地にも爛漫と咲き誇る。まことに見事の一語に尽きる。

教室の窓から外を見る。朝の斜光を受け輝くように咲き競っている姿が見え、本当に美しい。優雅な感じを呈する。

ここは岐阜県郡上郡八幡町である。父は土木技師、主として橋梁が専門である。

昭和十一年四月南へ約二十五粁の美濃太田町(現美濃加茂市)の土木出張所長から八幡町の出張所長としての赴任である。土木出張所は内務省の管轄であり、高度な技術を身につけ、国内は勿論のこと、朝鮮、台湾等へも辞令に従い転任する場合も往々にある。木橋の流出、あるいは老朽化したものを永久橋に架換工事。その予定されたこの地への転勤であったんであろう。

この地は本当に風光明媚、長良川の支流、吉田川の清流があり、郡上藩の城下町。城山には小さい乍らも立派な八幡城がある。

郡上踊りはあまりにも有名で気高い。特にお盆の踊りは七月の下旬から九月初旬まで時には夜を徹して踊られる。寺院の多い町で毎日どこかの寺院の境内、或いは広場で賑やかに催される。通行を遮断して道路一杯に繰り広げられる場合も多々見受けられる。

起源は約三百年前、郡上藩主が農民の苦境に直面したことを案じ、踊りを通して、地域住民の心からのふれあいを深める意味で広められ、常に倹約を旨として、住民ともども質素に暮らされたそうだ。

盆踊りの唄として「郡上のなあ、八幡出て行くときは、アソレンセー雨降らぬに袖しぼる」の川崎、春駒、三百、松坂、ヤッチャク、ゲンゲンバラバラ、それに猫の子等々、数多くあり、そのどの歌詞も仲々情緒豊かと言える。

或る昭和の記憶 自叙回想 初めに

父が遺した昭和十一年からの回想文を少しずつ公開してきます。
昭和の記録の一つとして。

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